2月15日の日記
2005年2月15日■St.バレンタインデー。
兄は、「オレが子供の頃はなかった。小学校低学年くらいにバレンタインデーが始まったのだが、その頃は、まだみんなよくわからないから、男の子から女の子にあげていたよ(笑)」と言っていたが本当だろうか? いくら何でもそれでは歴史が浅すぎると思うのは、僕が歴史を知らないからだろうか?
何はともあれ、今朝、いや、正確には、体調不良のため昼頃会社に出ると、机の上には、キーボードが隠れるほどのチョコがうず高く積まれていたら、、、と一瞬危惧したが、みんな、20代にして腹の出具合を心配しはじめた僕を気づかってくれたのか、山のように書類が積まれているだけであった。
■それにつけてもホリエモン。
あんまり極端な譬えはしたくないのだが、ホリエモンの言動をみるにつけ、たしか愛知だったか、何年か前に高校生が人を殺した事件で、「人を殺す経験をしてみたかった」と言った言葉を思い出す。唐突かもしれないけれど、何か、底に流れているものが共通している気がする。
人は誰だって、ほんのちょっと、手を伸ばせば、ひとつ踏み外せば、ホリエモンの言葉で言えば「勇気」を出せば、世の中を騒がせるような大変なことができてしまう。どの職業のどんな末端にいる人も、世の中をパニックに陥れること、もっと普通に言えば、みんなに迷惑をかけようと思ったら実に簡単だ。そうすることで、自分が潜在的にもっている「力」を感じ、誇示し、生きることの「手応え」みたいなものを感じられるのかもしれない。ただ、みんな、「法律」だけでなく、目に見えないたくさんの「ルール」に従っているから、そういうことをあまりしない。内田樹さんもたしか言っていたが、「自分と同じことを他の全員もするとどうなるか」ということをみんながどこかで想像することで、(そもそも全員が同じことをするなんてありえないけれども)世の中のバランスはとれていくのだと思う。
でも、愛知の少年もホリエモンも、そんなことは何も考えない。
色々考えたけど、なんだか、あまり考えがまとまらない。。。まあ、要するに結局は、「仁義」ってものが無いんだよな。というか単純に、自分のことしか考えてないんだよなぁ。
なんていうと、
「『仁義』がなきゃいけないんですか?」
――いや、いけないというわけでは。
「じゃあいいじゃないですか? 僕、法律破ってますか?」
というホリエモンの声が聞こえてきそうだけど。
ゲームのように「勝ち」に純粋にこだわるのは勝手だけれど、彼の「ゲーム」は実は「ゲーム」になってないように思える。ゲームって結局は一種の「見世物」なのではないかな? 「勝ち負け」を決定するのが本来の役割ではなく、参加している人や周りの人にとっての「エンターテイメント」であってこそ、なのではないかと思う。なんか、ホリエモンのやり方みていると、小学校のときに何人もいた、「みんなでゲームを楽しむ」ということができず、ただ、「相手をゲームで負かす」ことしかできない奴らを思い出す。もっと言うと、彼のやり方は、PCとかのゲームで勝負するときに、システムに直接入って操作している気がしてならない。対戦相手はゲームの画面を見ているのに、ホリエモンは数字とアルファベットでシステムをいじくってるだけ、という。ほんとに実もフタもなく。ま、もちろん、あれはあれで「見世物」として成立してるようにも見れるんだけど、あんまり長くは続けさせるのも「興行主」としてはどうなの、という類のものだという気がする。
■それにしても、グランドフィナーレを読むはずが、News23から「月光音楽団」(ゲストは哀川翔)に流れてしまった。。。
兄貴はもちろん、カッコいい。ベッキー、可愛い。加藤ローサ、キュート。
…でも何といっても安田美沙子、、、何とかして偶然同じマンションに住む手はないだろうか。
朝、偶然エレベーターで一緒になって、彼女は一階で降り駅へ。地下の駐車場から駆け上がった僕のバイクが信号で追いつく。
僕「安田美沙子さんですよね? もしよかったら駅まで送ってきますよ。同じ方向だから」
安田「え、ホントですか? あ、ありがとうございます」(礼儀正しい彼女)。
それをきっかけに、共有のゴミ置き場や最寄コンビニで会うたびに会話を交わすようになり…。
以上、妄想終わり。
TBSさん、この番組好きです。
でも、安田美沙子さんをもうちょっと映してくれたら嬉しいです。
■長いですがしつこく追記
ある方が日記で、「どの地方に行っても、結局は東京の借り物で、どこもプチトーキョーだ」みたいなことを書かれているのを読んで、次のような言葉を思い出した。メモ代わりに書く。
過去30年間、日本中で、黄金色に輝く稲穂が風になびく水田が潰されて、不要な道路と無機的で非歴史的なニュータウンができ、豊かな森が根こそぎにされてゴルフ場になり、郊外化によって歴史ある街並みが崩壊しつづけた。国土全体がスクラップ&ビルドされたのだ。そして、それらはみな、「所得倍増」や「富国強兵」の名においてではなく、「ふるさと」や「田園」や「地方の時代」の名において進められてきたのだ。
――三浦展『ファスト風土化する日本』(羊泉社新書)p.132より
兄は、「オレが子供の頃はなかった。小学校低学年くらいにバレンタインデーが始まったのだが、その頃は、まだみんなよくわからないから、男の子から女の子にあげていたよ(笑)」と言っていたが本当だろうか? いくら何でもそれでは歴史が浅すぎると思うのは、僕が歴史を知らないからだろうか?
何はともあれ、今朝、いや、正確には、体調不良のため昼頃会社に出ると、机の上には、キーボードが隠れるほどのチョコがうず高く積まれていたら、、、と一瞬危惧したが、みんな、20代にして腹の出具合を心配しはじめた僕を気づかってくれたのか、山のように書類が積まれているだけであった。
■それにつけてもホリエモン。
あんまり極端な譬えはしたくないのだが、ホリエモンの言動をみるにつけ、たしか愛知だったか、何年か前に高校生が人を殺した事件で、「人を殺す経験をしてみたかった」と言った言葉を思い出す。唐突かもしれないけれど、何か、底に流れているものが共通している気がする。
人は誰だって、ほんのちょっと、手を伸ばせば、ひとつ踏み外せば、ホリエモンの言葉で言えば「勇気」を出せば、世の中を騒がせるような大変なことができてしまう。どの職業のどんな末端にいる人も、世の中をパニックに陥れること、もっと普通に言えば、みんなに迷惑をかけようと思ったら実に簡単だ。そうすることで、自分が潜在的にもっている「力」を感じ、誇示し、生きることの「手応え」みたいなものを感じられるのかもしれない。ただ、みんな、「法律」だけでなく、目に見えないたくさんの「ルール」に従っているから、そういうことをあまりしない。内田樹さんもたしか言っていたが、「自分と同じことを他の全員もするとどうなるか」ということをみんながどこかで想像することで、(そもそも全員が同じことをするなんてありえないけれども)世の中のバランスはとれていくのだと思う。
でも、愛知の少年もホリエモンも、そんなことは何も考えない。
色々考えたけど、なんだか、あまり考えがまとまらない。。。まあ、要するに結局は、「仁義」ってものが無いんだよな。というか単純に、自分のことしか考えてないんだよなぁ。
なんていうと、
「『仁義』がなきゃいけないんですか?」
――いや、いけないというわけでは。
「じゃあいいじゃないですか? 僕、法律破ってますか?」
というホリエモンの声が聞こえてきそうだけど。
ゲームのように「勝ち」に純粋にこだわるのは勝手だけれど、彼の「ゲーム」は実は「ゲーム」になってないように思える。ゲームって結局は一種の「見世物」なのではないかな? 「勝ち負け」を決定するのが本来の役割ではなく、参加している人や周りの人にとっての「エンターテイメント」であってこそ、なのではないかと思う。なんか、ホリエモンのやり方みていると、小学校のときに何人もいた、「みんなでゲームを楽しむ」ということができず、ただ、「相手をゲームで負かす」ことしかできない奴らを思い出す。もっと言うと、彼のやり方は、PCとかのゲームで勝負するときに、システムに直接入って操作している気がしてならない。対戦相手はゲームの画面を見ているのに、ホリエモンは数字とアルファベットでシステムをいじくってるだけ、という。ほんとに実もフタもなく。ま、もちろん、あれはあれで「見世物」として成立してるようにも見れるんだけど、あんまり長くは続けさせるのも「興行主」としてはどうなの、という類のものだという気がする。
■それにしても、グランドフィナーレを読むはずが、News23から「月光音楽団」(ゲストは哀川翔)に流れてしまった。。。
兄貴はもちろん、カッコいい。ベッキー、可愛い。加藤ローサ、キュート。
…でも何といっても安田美沙子、、、何とかして偶然同じマンションに住む手はないだろうか。
朝、偶然エレベーターで一緒になって、彼女は一階で降り駅へ。地下の駐車場から駆け上がった僕のバイクが信号で追いつく。
僕「安田美沙子さんですよね? もしよかったら駅まで送ってきますよ。同じ方向だから」
安田「え、ホントですか? あ、ありがとうございます」(礼儀正しい彼女)。
それをきっかけに、共有のゴミ置き場や最寄コンビニで会うたびに会話を交わすようになり…。
以上、妄想終わり。
TBSさん、この番組好きです。
でも、安田美沙子さんをもうちょっと映してくれたら嬉しいです。
■長いですがしつこく追記
ある方が日記で、「どの地方に行っても、結局は東京の借り物で、どこもプチトーキョーだ」みたいなことを書かれているのを読んで、次のような言葉を思い出した。メモ代わりに書く。
過去30年間、日本中で、黄金色に輝く稲穂が風になびく水田が潰されて、不要な道路と無機的で非歴史的なニュータウンができ、豊かな森が根こそぎにされてゴルフ場になり、郊外化によって歴史ある街並みが崩壊しつづけた。国土全体がスクラップ&ビルドされたのだ。そして、それらはみな、「所得倍増」や「富国強兵」の名においてではなく、「ふるさと」や「田園」や「地方の時代」の名において進められてきたのだ。
――三浦展『ファスト風土化する日本』(羊泉社新書)p.132より
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