突然、脈絡もなくヘンな話だけれども。

小学5年生のとき、母方の祖父が死んだ。
一緒に住んではいなかったけれど、しょっちゅう遊びに行っては、公園に散歩に連れて行ってもらったり、難しい話を教えてもらったり、すごく可愛がってくれた祖父だった。

知らせを聞いたのは真夜中だったと思う。

我が家に緊張が走って、僕が眠りからたたき起こされた時には、車のエンジンがかかる音がしていたような、そんな感じだった。

初めての親しい、身近な人の死。

大変なことだっていうのは、周りの雰囲気でわかったし、人はいつか「死」を迎える、ということももちろん頭ではわかっていた。

でも、僕は自分の置かれた状況を、「おじいちゃんが死んだんだ」「これは泣いてしかるべきできごとなんだ」と、頭で把握しようと努めるだけで、リアルな感情として激しい悲しみを感じることがほとんどできなかった。「僕一人、こんな冷静でいいのだろうか」と子供心にも思った記憶がはっきりある。

「骨揚げ」というのか、火葬した祖父の骨を骨壷に入れながらも、「もう絶対に戻ってはこないんだな」といっそう「認識」が深まるばかりで、もちろん悲しくはあったけれど、頭はどこかで醒めていた。

でも、その「骨揚げ」を終え、一段落したとき、少し悲しそうな笑顔で父が言った一言で、僕は突然、声を上げて泣き出してしまった。

「おじいちゃんに、ファミコン教えてあげたかったな」

当時、ファミコンに熱中していた僕は、横浜の祖父の家に遊びにいくと、「ファミコンっていうのがあってすごく面白いから、おじいちゃんも今度ウチに来て一緒にやろうよ」っていうようなことをよく話していた。

とはいえ、相手は筋金入りに頑固な明治生まれ。「子供はテレビの前なんかに座ってないで、表で遊びなさい」とか「おじいちゃんはテレビゲームはできないなぁ」などと言うばかりで、ファミコンにはなかなか理解を示してくれなかった。

でも、年のせいで筋金が若干緩んできたのか、度重なる説得工作が効いたようで、亡くなる直前の頃には、「よし、今度おじいちゃんも○○(僕)にファミコン教えてもらおうかな」と言って楽しみにしてくれていたのだ。もちろん、僕も楽しみにしていた。

その辺のことを父親もよく知っていたのだろう。

父親のその一言で、「祖父の死が僕にとってどういうことなのか」がようやく初めて呑み込めて、たぶん、それまで10年くらい生きてきて、初めて「絶対に取り返しのつかないこと」に直面したショックで泣いてしまったのだと思う。

なんだか、当たり前すぎることかもだけど、「死」=「悲しい」のではなくて、その人の死によって、「その人なしにはできないこと」ができなくなってしまう(同語反復…)ことが悲しいのだな、とそんなことを安藤鶴夫のエッセイを読んでいたら思い出してこんな話を書いてしまいました。

ちなみに、祖父は、独自に編み出した(らしい)ミルクを使った健康法というのをやっていて、それと全く同じことを当時のレーガン大統領もやっているのを知ったとき、

「レーガンの野郎、真似しやがった」

と本気で腹を立ててしまうようなところが、子供心に好きだった。

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