どんなときも。
2006年7月1日好〜きなものを好〜きぃと、言える気持ちィ〜、抱きしめてたい〜♪
と捕まるよりだいぶ前のマッキーが歌っていたのは、たしか僕が中学生のときだった。
でも、当時の僕は、「好きなものを好きと言う」ことがどうしても苦手で、自分自身が「何々が好きだ」と口にすることや、人が無邪気そうに「○○が好き」というようなことを言うことに対して自分でも説明のつかないような猛烈な違和感を覚える中学生で、その気持ちをどう説明すればいいのか分からないまま中学を卒業し、高校を卒業し、大学に入り、悶々とした学生生活も終盤に差しかかった頃に出会ったのが、『赤頭巾ちゃん気をつけて』という、ちょっと恥ずかしいタイトルの小説だった。
というのはどうでもいいことなのだけど、最近、今までにないほど、純粋に仕事&睡眠の往復の日々を続ける中で、なんとなく久しぶりに呼んでみたくなって、寝る前の時間に少しずつ、この薄い小説を久しぶりに読み返してみた。
大学生当時、僕は、一読して、それまでにないタイプの衝撃を受けた。↑のような悩みにかなり幼い頃から煩わされていた僕は、ここにも、「それを言っちゃぁお終いよ」ということの周りをぐるぐる回ってばかりの人がいる(人を傷つける言葉、という意味ではなく、「それを口に出したら何かが決定的に損なわれてしまう」という意味で)と、ちょっと恥ずかしいくらいに感動してしまった。
僕が本当にその小説に共感するのであれば、「共感した!」と(いう本音を)おおっぴらに口に出してはいけないと思うし、それを座右の書のようにして、再読、再々読するなんてことは、とんでもない背理のように思える。少なくとも、当時はそう思って、愛読書として明かすことを(単にちょっと恥ずかしい、という気持ちもそれなりに小さくないけれど)自分のなかで固く禁じていた。
それが、最近、ちょっと事情が変わってきた気がする。
「口に出したら終わり」という、その「何か」が何なのかは、もちろん昔も今もよくわからないのだけど、少なくとも初めてあの本を読んだ頃には、「何なのかはよくわからないけれど、その周りを自分は回っているし、それによって、その『何か』はだんだんとはっきりしたものになってくる」という確信みたいなものが確実にあった。
でも、「本読む暇も全然ないなぁ」なんて一人でぼやいたりしているうちに、僕は、うすうす感じるようになった。一体、どこを、何の周りを僕は回っていたんだっけ? 誰にも言わないし、自分自身でも言葉にするわけではなく、ただ、確実にある、と、その形までおぼろげに感じていたその、中心みたいな「何か」。それが、今、どこに、どんな様子をしているのか。見失ってやいないだろうか?
名前も知らないし、住所も知らない。電話帳にも載ってない。みたいなことになると、もはや探しようがない。住所だけでもメモっておけばよかった、みたいな気分にたぶん僕はなってしまった。それで、僕は、微かな手がかりを求めるように、久々に『赤頭巾ちゃん』を本棚から引っ張りだしたのだと思う。なんとなく、悔しいような、恥ずかしいような気分になりながら。
(たぶん3読目の)今回も、面白く読んだけれど、正直に言って、初めて読んだときのような衝撃はなく、ただ、ここは衝撃的だったなー、とはっきり記憶しているところが何箇所かあり、あの頃はずいぶん暇だったんだな、と昔の自分を想像してみたりした(そんなことしてる暇があるなら、さっさと寝た方がいいのだが)。
それと、その文体が、ときどきこの日記で書く自分の文体にそっくりだったので驚いた。これは、影響を受けたのか、もともと似通っていたのかは不明です。
と捕まるよりだいぶ前のマッキーが歌っていたのは、たしか僕が中学生のときだった。
でも、当時の僕は、「好きなものを好きと言う」ことがどうしても苦手で、自分自身が「何々が好きだ」と口にすることや、人が無邪気そうに「○○が好き」というようなことを言うことに対して自分でも説明のつかないような猛烈な違和感を覚える中学生で、その気持ちをどう説明すればいいのか分からないまま中学を卒業し、高校を卒業し、大学に入り、悶々とした学生生活も終盤に差しかかった頃に出会ったのが、『赤頭巾ちゃん気をつけて』という、ちょっと恥ずかしいタイトルの小説だった。
というのはどうでもいいことなのだけど、最近、今までにないほど、純粋に仕事&睡眠の往復の日々を続ける中で、なんとなく久しぶりに呼んでみたくなって、寝る前の時間に少しずつ、この薄い小説を久しぶりに読み返してみた。
大学生当時、僕は、一読して、それまでにないタイプの衝撃を受けた。↑のような悩みにかなり幼い頃から煩わされていた僕は、ここにも、「それを言っちゃぁお終いよ」ということの周りをぐるぐる回ってばかりの人がいる(人を傷つける言葉、という意味ではなく、「それを口に出したら何かが決定的に損なわれてしまう」という意味で)と、ちょっと恥ずかしいくらいに感動してしまった。
僕が本当にその小説に共感するのであれば、「共感した!」と(いう本音を)おおっぴらに口に出してはいけないと思うし、それを座右の書のようにして、再読、再々読するなんてことは、とんでもない背理のように思える。少なくとも、当時はそう思って、愛読書として明かすことを(単にちょっと恥ずかしい、という気持ちもそれなりに小さくないけれど)自分のなかで固く禁じていた。
それが、最近、ちょっと事情が変わってきた気がする。
「口に出したら終わり」という、その「何か」が何なのかは、もちろん昔も今もよくわからないのだけど、少なくとも初めてあの本を読んだ頃には、「何なのかはよくわからないけれど、その周りを自分は回っているし、それによって、その『何か』はだんだんとはっきりしたものになってくる」という確信みたいなものが確実にあった。
でも、「本読む暇も全然ないなぁ」なんて一人でぼやいたりしているうちに、僕は、うすうす感じるようになった。一体、どこを、何の周りを僕は回っていたんだっけ? 誰にも言わないし、自分自身でも言葉にするわけではなく、ただ、確実にある、と、その形までおぼろげに感じていたその、中心みたいな「何か」。それが、今、どこに、どんな様子をしているのか。見失ってやいないだろうか?
名前も知らないし、住所も知らない。電話帳にも載ってない。みたいなことになると、もはや探しようがない。住所だけでもメモっておけばよかった、みたいな気分にたぶん僕はなってしまった。それで、僕は、微かな手がかりを求めるように、久々に『赤頭巾ちゃん』を本棚から引っ張りだしたのだと思う。なんとなく、悔しいような、恥ずかしいような気分になりながら。
(たぶん3読目の)今回も、面白く読んだけれど、正直に言って、初めて読んだときのような衝撃はなく、ただ、ここは衝撃的だったなー、とはっきり記憶しているところが何箇所かあり、あの頃はずいぶん暇だったんだな、と昔の自分を想像してみたりした(そんなことしてる暇があるなら、さっさと寝た方がいいのだが)。
それと、その文体が、ときどきこの日記で書く自分の文体にそっくりだったので驚いた。これは、影響を受けたのか、もともと似通っていたのかは不明です。
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